昭和40年07月08日 朝のご理解
誰かの話の中に、こんな、聞いた事がある。「言うて聞かせてして見せて、ほめてやらねば、誰もせんぞえ」と。言うて聞かせてして見せて ほめてやらねばだれもせんぞえ、ね、なるほどうがった事だと思います。ね。というのも、これはどこまでも、幼稚なものを相手にしたときだと思うのです。ね。それは、どこまでもです、幼稚なものを対象とし、相手としたときの言うて聞かせてしてみせて、ほめてやらねば誰もせんと。こげんせんならんばいと、あぁせんならんもんよと。
口で言うただけじゃ聞かん。自分が実践せにゃいかん実際に。ね。じゃぁこげんあるもんよ。と、私をみなさい。とこげんせんならんよ。とそしてそのうえよぉできても悪うできても、とにかくはぁよぉでけたというて。まぁほめてやらないけんとこう言う。でもそれはどこまでも幼稚なものを対象とした時、みなさんの信心のうえでですね、ね。言うて聞かせてもらいして見せてもろおてほめられておると言うならば、今私の信心は本当に幼稚なんだという事を知らにゃいかんと。ね、
褒められたり、おだてられたり、言うて聞かせてもろうたり、どうでしょうか?みなさん。まぁそれ以下もありますよねぇ。それ以下もあるです。あれはもう言うて聞かせたっちゃわからんから。ねぇ。もうほめどんすると、かえってつけ上がる。おだてどん、するなら、もうどこまででもそれこそ登るやら分からん。もうほぉからかすほかになか、っち言うようなものもある。
皆さん、ひとつあなた方の自分の心の中やら、自分の周囲やらをひとつ、みてごらんなさい。ね。それとてもです。本気で信心が分かりたい。本気っとは言わんでも、信心が分かりたい。おかげを頂きたい。お徳を受けたい。と言うておる人たちだけのうえに、それでは、ただ、そういう事なんかは問題じゃない。お参りはしよるけれども、お話は頂きよるけれども、お話よりも、お参りよりも、修行よりも、ね。
そげなんとは、どうでんよか、おかげさえ頂けばよか、って言うなら、また、それ以下なんです。ここには信心のけいこにくる所と、こうおっしゃる。本気でけいこに、通う。けれども、そのけいこの通うて来るけれども、そのけいこの熱、不熱というなら、また、これは、限りがない。熱心、不熱心という事。ね。だから、本気でけいこをしようという気があるから、言うて聞かせよう。
してみせる。ほめてやる。それで、順調にこう、信心が進んでいく人もある。それでも、いつまでも、そんなにほめたり、おだてたり、してみせなければ、せんというような、ことではならん。もう、10年も前だったでしょうか。たまたま、御祈念のあとに、総代さんの方が、4、5人集まっておった。まだ、立川さんが総代の御用を頂いておる頃、福岡の帰りに、主人にお土産ちいうてから、ふぐをさげてきた。
だから、ふぐ料理で、いっぱいやっておるあとに、何か甘木関係で、教師会か何かがあったから、というて、その帰りに善導寺の親先生と北野の先生とそれから、東久留米の田中先生の3人が、突然やって見えられた。さぁ、あただに風呂がぬるなっとっとを沸かしなおし、寒―い冬もうとにかく寒い冬の日でしたから、風呂に入ってもらって、その間にみんなでその、頂いておるそのふぐをまだ、料理してないのがあったから、それを料理して、まぁ、ふぐざかなで一杯さしあげた事があった。
あの時分にまぁ色々なまぁ、ここの問題が沢山山積みにされておる時で、今でもおんなじですけれども、その時に東の田中先生が私に言われた事は私しは覚えておる。ね。親教会にあなたが例えば日参をする。とあなたが一生懸命お供えをする。と一生懸命御用を頂くと。ね。それはね信者に対するところのひとつの手本なんだと。信者の教導は自分がその、親教会なら親教会にこれだけ尽くしておるという事をみせるという事が信者に対して生きた手本だというような意味の事を話された。
もう私はもうその当時、もうそんな事なんか全然問題じゃなかった。しかしお互いにそういう先生もあるという事です。信者におしえるためにお供えをしてみせなっしゃる。信者にこげんあるべきもんぞ、というてからです、ね。じゃお賽銭ならお賽銭にこげんせなんならん。御初穂は御初穂でこげんせなんならん。こげなんと時には、こげなんふうに御用ぶりはこげんでなからならん。と。信者に見せるため。
そんな事で果たして信者がそれに、右習いするだろうか?うちの先生はあぁしなさなければ、おられない先生だという時に、初めてついてくるんのでしょう。ねぇ。子供たちにでも、家内たちにでも、例え自分の周囲の者にでもです。こげんさせようと思って、こげんして見せよるといったようなのでは、私はほんなこっちゃないとこう思う。そのへんに、私、これはどちらが本当か分からんにいたしましても、見解の相違というものは仕方がないもんだなと私、思った事があるです。
むしろ本当のことはです見せるんじゃない。だぁれも知らんようにさせて頂かなければ、おられんのですよ。本当は。ここでも問題は私が神様に向かっておる事。私が親教会に感じておる事。私が御本部に思うておる事。皆さんご承知じゃありますまいが。私のうわべだけの事しか知っちゃないでしょうが。ね。それでもですこういう場合にはどういうふうに、させて頂いたらいいだろうか?というような、質問を受けたり、相談をうけたりした時には、私ならこうするかくする。と私は教えます。
お互いの信心がです。どうぞひとつ、まず幼稚なところまで進まないかん。ね。信心の例えばけいこさせて頂こうという依存がまだありますよ。信心にお参りしてきておっても、信心の稽古なんかどうでもえぇと。ね。けれどもだんだん分かってくればくるほど、これは何でもおんなじだなぁ信心も手習いも同じ事、一緒の事だ、なるほど、稽古しなきゃぁいけん。まぁここが幼稚なとこに入ったんでしょう。ね。
いわゆる幼稚園に入ったんでしょう。ね。その場合やはりある意味で、はぁよう参ってきたねとか。いやぁこの頃久しぶり参ってきた。どげなふうですか?と。そしてまぁ機嫌とるようにいうような、時代を幼稚な信心。その幼稚な信心がやはり3年・5年・10年は続くもんです。たいていのひとは。昨夜、遅くから、福岡の秋永先生が杉山さんところの、お礼やら、何やらをとりつくろうてから、一緒にお参りしてきた。12時ぐらいまでおられましたから色々話した事でしたけれども。
私は有難いと思う事はね、最近うちの総代さん方が、私がもう総代さん方に限ってもう、がみがみがみがみいう。他の者には言わんけれども、総代にはもうもう面と向かって言う。でなかったらもう本当に総代にあてつけよるとと言うようにして私が意識して言う。それでももううちの総代達がおかげ頂いてから、心でどげん思うとるかは、知らんけれどもです、ね、先生があげなごつ言うなら参らんっち言うごたる人が一人もおらんという事だけは、ありがたいっち言うて話した事だった。
いわば言うて聞かせられよるとです、ね、幼稚なところから少しずつ進んだという感じがする。いくらえげつなく言われてもどんなに叩かれても、それでもやっぱり通うてみえる有難い。私が頂だいとります御教えの中に考える…「考えるより祈れ」という御教えがある。昨日一昨日でしたか、ある事で、久留米の野口さんがもう本当に言わなければおられん、一言でもいいから言うとかなければ、くせになる。
と一言でも言いたい。もうそれを一晩中それを思い出したらね、もうおきてからもううろうろうろうろ、せんなんならんくらいに心の中にいっぱいだった。あくる朝はもう眠れんままに、朝の御祈念に参ってみえて、昨日一昨日でした。そのまま「先生どんなもんでしょう?」「それは言うちゃいかん。お取次ぎを頂いてお願いしとけば、それでよか。」と。さぁ、もう本当に日頃の信心とは、そこが有難いです。
先生から言われた途端に憑き物が落ちたように、自分の心がスキっとした。昨日また参ってきてからですね、先生もう、本当に一口でも言わんどって、ようございましたっち、おかげ頂いてこうこうでした、と言うて、昨日お届けがあった。ね。一生懸命…(の)…考えておられた。考えておったら、考えれば考えるほど、一口言わなければいけないというのが、一晩中の苦しみであった。晩眠られんごとあった。
座敷あっち行ったりこっちいったりするくらいにあった。次には、その考えるこつよりも、なるほど、それを言うちゃならん、言うちゃならん。それよりも、祈る事だという事になった時におかげをうけておる。いや、そのただ(?)まぁ、本当に憑き物が落ちたように自分の心から「はぁ、そうじゃった」とこう感じられたとき、それでおかげを頂いておる。ここで、一言でも言うとったらもうだめなんです。ね。
これは例えばその…求める時。これはまた別なんです。ね。信心なら信心をです。ね。求めてくる時にゃ、求めるものに対しては持っておるなら与えなければならん。その人の信心によって。丁度適当な信心を与えなければならない。ギリギリの自分の信心を言うたところで、分かるはずはないから、それぞれ分かるように、やっぱり伝えてあげなきゃならん。教えてあげなければならない。
考えるよりも祈れ。いわゆる黙って祈るという事。そんなら、黙って祈るという事はどういう事かと。私は思わせて頂くのにですね、椛目で五年十年と信心のけいこをさせて頂いておられる方達はもう、このへんがだいたい体得されておかなければならないと、黙って祈るという事。言うて聞かせて祈るとか、言うて聞かせてしてみせるとか、そんなもんじゃない。黙って祈るという事。
なら、黙って祈りさえすればよいかというと、その内容というものは、そんなもんじゃない。黙って祈るという事は改まって祈るという事なんだと。ね。うちの子供が例えば、言う事を聞かんと。ね。黙ってどうぞいう事を聞きますようにと祈っておれというのじゃない。親自体が改まって祈るという事。今朝から、ご神前に出らして頂きましたら、一番はじめに頂きます事が、「月」偏に「己(巴)」という字を。
何ていう字になりますかね。肥前の肥でしょう?ね。月を書いて己(巴)。この字だけででも、頂くとはぁこれはこういう御理解だと、皆さんお分かりになるでしょう?肥前の肥です。肥えるという字ですお分かりになるでしょう?ね。己が肥える以外にはないっちゅう事です月というのは、ね、神様を例えば太陽に例えるならば氏子は月だと。私ども自身にどんなに知恵があるの力があるの、徳があるのと言うてもです。
私ども自体に実は、光が(を)あててもらわなければ、力がある訳でもない。神様のおかげを頂かなければ、出来る事ではない。という事。そこで、私どもが、この月自体がの、氏子自体、己自体がです。三日月さんの時には、三日月さんだけの明かりしかないっちゅう事。ね。半月の時にはやはり、半月さんだけの光しかないという事。自分の心が円満に満丸、いわゆる和賀心である時。和らぎ賀ぶ心である時。
十五夜のお月さまの様である時。それこそ昼をもあざむく様な光になるという事。月自体に光があるのではなくて、太陽自体の光を反射してのあれは光であるという事。自分の心が三分の時には三分だけの光。五分の時は五分だけの光。満丸くなった時に、初めて満丸い光があるのであるという事。月という字はそういう事だと思う。己の事なんだ。それをあわせて分からしてもらう時に、肥えるという事になる。ね。
あなた自身がです言わずに祈れとか、黙って祈れとか考えるよりも祈れとか。と言う事はです。ただ考えるのをやめて、ただ一生懸命祈ると言うだけじゃいかん。黙って一生懸命、ただどうぞあぁこうと祈るだけではいかん。ね。改まって祈らなきゃ黙って祈るという事。改まって祈るという事であるという事。ね。あの人はそぉに食欲はそぉにあるけれどもいっちょん、肥えらっしゃれんっちいう人があるでっしょうが。
そしたら、病院に行って調べらっしゃったところが中にその、回虫がいっぱいおったげな。何の栄養分をも、この回虫がみんな食べてしまいよった。肥えたい、と。一生懸命教えもいただきよる。一生懸命御用もさせてもらいよる。一生懸命、信心修行もさせて頂きよるのだけれども、心がやせはてたようにして、ちょっとした事が気になる、ちょっとした事が 腹が立つ。
肥えようと思うけれども肥えないという時にです。私はいっちょ虫下しを飲まないかん時だと思うね。栄養取りよるにも関わらずです。ね、血にも肉にもなりよらん。いわば、その血に肉になっておるのは虫どもだけが、肥えておるのである。太っとるのであるという事。ね。そこになる時に成程改まって願うのでなからなければいけないという事が分かるでしょうが。まず自分の心の虫をまず取り除く事だという事。
なるほど言うて聞かせてから、して見せてから、褒めてから、出来るなら、それでも結構。けれども、言うて聞かせても、して見せても、褒めても、言う事聞かんならばです、翻然として、ひとつここを分からしてもらわなければ、いかん。こりゃぁ、考えるよりも、祈りであり。ね。言うて聞かせるよりも、黙って祈る以外にはない。黙って祈るという事は、自分自身が、肥える以外にはない。自分自身が太る以外にはない。
そこで一生懸命栄養とってみたかえれど肥えない。そんならまず虫、虫下しがいる時である。まず改まりが必要な時である。自分の中身からです。自分の栄養を吸収している何者かがある、我情我欲の虫がある。浮気の虫がある。根性の悪い虫が自分の心の中に潜んでおる。それが、栄養分をみんな吸収しておるという事。そこで、気づかしてもらうなら、それを取り除かしていただく事に、一生懸命になる時。
一生懸命に教えを頂く時、栄養を心に与える時に、心が豊かになる、太ってくるのである。ね。そこに言わんですむのでありねごうた事がです、ね、成就していくようなおかげになってくるんです。皆さんこのようなところまで言わんでも分かっておられる。分かっておられるけれども実際問題として中々出来ない。ね、改めてです私今日の御理解をもういっぺんよぉく玩味してみて、考えるよりも言うよりも、ね、
ただし、私がさっきも申しますようにですよ、ま、ここでならですよ、私が一生懸命皆さんに言うというこの事も、です。皆さんがおかげを頂きたいと求めて、おかげを求めてくる。一生懸命信心が分かりたいというて求めてくる。求めてくるから、与えるのである。言うて聞かせるのである。求めないなら、言うては聞かせん。だから、私は朝の御理解のあとに参ってくる人達なんかは、もう、求めておるんじゃないから、と、私は思うから、まず、御理解を解かない事に最近はしておる。ね。
本気で求めるならば、とにかく朝は遅なったちゃ、せめて御理解だけなっとんと言うて、弾んでくるはずなんだそうでしょうが。例えもう遅う参ってきてもです。先生今日の御理解をと、こういうふうに求められれば、私はまた朝の御理解以上にその人に対してです、今日の御理解をまた、朝のご理解なら御理解をまた、噛み砕いてまたその後に気づかして頂いた事までそろえて、私は聞いてもらう事にしておる。
ただ、お参りをしてきてもです。ただお参りをしてきた。テープを聞こうというわけでもなかなければ、話を求めて聞こうとしない者に、いくら私が与えたって、仕方がないでしょう。ね。これは、私と皆さんというだけの事じゃありません。皆さんと家族、皆さんの周囲、皆さんと難儀な問題、理屈はおんなじです。ね、どうぞ一つ、言わずに黙って祈れれる信心、黙って祈れれる。
祈るという事は、自分自身が月に己である、月自体が円満に満丸になる以外にないのであり月自体が光を受けられる状態にこちらがなる以外にないのである。己が肥える、太っていく以外にないのである。そこで、太ろうと、肥えようと、ところが肥えない、それは、自分の心の中に、身中に、獅子身中の虫といったようなさまざまな虫がおるのである。その虫を取り除かせて頂く事に努めさせて頂いたら。
血に肉になってきた、肥えてきたという事にもなるのです。それと同時にそのこと自体が神様のお喜びであるから、月自体が円満になって、太っていく事であるから、それに対するところの光も大きゅうなる。おかげも願わんでも、頼まんでも、あんな難儀な問題がこのように見やすい解決のおかげになってきたというような事にまでなってくる。と私は思うのですね。有難うございました。」